【映画「メランコリック」評】一面的認識から多面的理解へ、あるいは銭湯の効用
ひょんなことから人生が大きく動き出してしまう登場人物たちの人間模様を描いた、田中征爾監督の長編デビュー作、映画「メランコリック」。第31回東京国際映画祭の日本映画スプラッシュ部門で監督賞を受賞するなど大きな注目を浴びた同作のBlu-ray&DVDがついに発売された。上映前より同作に注目してきた1人で映画への造詣も深い、「
東大を卒業したのちも、定職に就かずにいる鍋岡和彦(皆川暢二)は、たまたま訪れた銭湯「松の湯」でアルバイトとして働くことになる。松の湯は表向きはどの街にでもありそうなごく普通の銭湯なのだが、営業終了後の深夜には裏社会の仕事、ようは殺しの現場として使われている。あるとき、ひょんなことから松の湯の深夜の顔を目撃してしまった和彦は、以後、通常業務に加えて殺人の後始末、具体的には清掃業務を行うこととなった––––。映画「メランコリック」は、この松の湯の深夜の部に絡む出来事を軸に、和彦の高校の同級生・百合(吉田芽吹)と和彦の恋愛物語や銭湯のバイト仲間・松本(磯崎義知)との友情物語などを散りばめながら進んでゆく。サスペンス、ヒューマン・ドラマ、ラブ・ストーリー、コメディを横断しつつ、一方でビルドゥングス・ロマン的な側面もあるというユニークな作品だ。
作中、和彦が見せる、仕事を任されることの嬉しさや同僚に対する嫉妬、あるいはちょっとひねくれた自尊心などは、そのほかの登場人物の醸し出す雰囲気––––自分たちのまわりにもいそうな人物造形である––––とも相まって、この一見荒唐無稽な設定の物語に絶妙なリアリティを与えている。また、非正規雇用や学歴へのプレッシャーといった現代社会の問題点が織り込まれているということも特筆に値しよう。観ているうちに、なんだか近所での出来事のように思えてくるのは、そんなところからではないだろうか。
この作品では、人やものの持つ別の側面––––一般的にこうであろうと思われている面ではない部分、一見するとわからない事実––––が次々と明らかにされてゆく。松の湯が銭湯でありながら殺しの仕事の現場であること、和彦が高学歴にもかかわらず一度も就職せずバイト暮らしであること、ただの仕事仲間と思っていた松本が実は殺し屋だったこと、和彦の母親が物語の終盤で思いがけない技術を発揮することなどがそれにあたる。いうまでもなく、多くの物事、とりわけ人間は一面的な存在ではないわけだが、我々はついそれを忘れて単純化し、レッテルを貼ってしまう。本作は、そんなレッテルを軽々と剥がして提示してくれる痛快さがあるのである。その意味で、この度のソフト化に際して、劇中のイメージビジュアルをレンチキュラーシートに印刷し、角度によって画像が変わるパッケージに仕上げたFRAGMENT DESIGNの仕事は見事というほかない。
人や物事に対する固定観念ということでいえば、作中の登場人物たちも会話や行動を通じて固定観念や思い込みを払拭し、互いの違う側面を発見して、一面的、平面的な理解を多面的で立体的なものへと進化させる。そして、その多面的、立体的な存在は、物語が進むにつれて自らも成長し、やがてそれぞれ個性のある球体へと近づいてゆく。こうした印象は当然ながらコミュニケーションの賜物であるのだが、裸になって汚れを洗い流し、穏やかな時間を与えてくれる銭湯の効用というようにも感じられるから面白い。体を洗い、磨き上げることで多面体たる人間の角が取れ、入浴によってそれはさらに柔らかなものになる。ラストシークエンスの風呂上がりの光景は、そんなふうにして優しくなった人々の笑顔に溢れていて、実に印象的である。
■映画『メランコリック』公式オンラインショップ
https://melancholic.theshop.
>>青野賢一
個人のリソースを主に社外のクライアントワークに生かす「
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